秋の始まりに針ノ木岳へ
お盆の前から不順な天気が続いてきたが、八月末になってようやく、天候が安定してきた。秋めいてきたであろう北アルプスで週末を過ごすという計画も悪くはない。平成十五年八月二ニ日、金曜日の夜、新大阪を夜行電車で信州へと向かう。途中、松本で電車を乗り換え、早朝、信濃大町で下車する。山国ではもう秋が始まっているのか、半袖シャツでは、少し肌寒い。駅舎を出て、空を眺めると、厚い雲に覆われ、怪しげな雲行きである。臨時バスに乗ると、中はちょうど座席が埋まる位の登山者や観光客である。午前六時過ぎ、扇沢に着く。殆どの人は、立山に向かうトロリーバスの列に並んでいる。一人でテントの入った大きなザックを担いで、コンクリートで固められたバスターミナルの横から針ノ木岳への山道に入る。しばらく、みずみずしいブナの森の中を歩く。空の雲も取れて晴れ間が広がり、気温も上がり、汗が噴き出してくる。
大沢小屋の前を通り過ぎると、程なく、雪を豊富に残した針ノ木谷が見え出す。右の支谷からは、勢いよく雪解け水が流れて、岩クズが広がり、少し背の高い草が生えた気持ちの良い平地に出る。ザックを降ろして、今日始めての休みを取る。針ノ木谷に入ると、固い雪面が緩い傾斜で稜線へと続いている。スプーンカット状になった雪面の平らになった所に足を置いて調子よく谷を登る。一時間程で、雪渓を抜け、左のガレ場に出る。あたり一面は、黄色いミヤマキンバイが咲きこぼれている。いつのまにか前を歩いていた人達を追い抜いて先頭に立ち、ジグザクの斜面を登り、九時半頃、針ノ木峠に着く。快晴の空の下、峠には爽やかな風が吹き抜け、汗も引いて肌寒い。槍ヶ岳が遠く紺色の綺麗な三角形の姿を見せている。黒部川の深い緑の谷が足元に見え、さらに、五色ケ原の草原からたおやかな薬師岳へと続く残雪が残る緑の尾根が見える。登ってきた針ノ木谷の後ろには、爺ヶ岳や鹿島槍ヶ岳が見え、頂上の上には、薄いウロコ状の秋の雲が出ている。
峠から頭上高く見える針ノ木岳を登り始める。しばらく行くと、チングルマやイワカガミなどが咲くお花畑に出る。写真を撮りながら、ゆっくりと登る。白い岩の間を登り、一時間位で、針ノ木岳の頂上に着く。頂上には数人の人がアルプスの山を眺めながら休んでいる。晴れ渡った空の下、足元には、黒部湖が深い緑の湖面を漂わせ、その後ろには、岩と雪の立山そして剣岳が聳えている。北アルプスの山々を眺めながら、缶詰を開けて、みかんを食べ、甘いシロップを飲む。
針ノ木峠から見る針ノ木岳(左)とスバリ岳
針ノ木岳から急なガレ場を慎重に下る。左下の黒部湖に遊覧船が見え、白い航跡が見える。左の立山側から少し強い西風吹き、暑さも少しまぎれる。スバリ岳との鞍部に出ると、右下の針ノ木雪渓から続くマヤノクボ谷の源頭は、雪渓が残る浅いカールとなり、まわりには気持ちよさそうな草地が広がっている。スバリ岳を登り始める。白い岩クズの斜面に、少し枯れかかったコマクサがたくさん咲いていて、写真を撮る。幾人かの人とすれ違った後、一人旅となる。岩の色が赤い赤沢岳の領域に入る。尾根はハイマツなどの植物が多くなり、穏やかな雰囲気が漂う。左手には、ゴツゴツした剣岳がいよいよ近くなり、有名な岩尾根や雪渓が一つ一つ指摘できる。午後一時半頃、誰もいない静かな赤沢岳に着く。早朝から歩き続けているのでだいぶ疲労がたまってきた。尾根道はさらになだらかになり、植生も豊かになってきた。尾根道が信州側になり、西風が止み、少し、暑くなる。青いトリカブトやピンクのハクサンフウロが咲くお花畑になり、二時半頃、新越乗越小屋に着く。小屋は宿泊する登山者で混雑している。ここで冷えたビールを仕入れ、少し先に頂上が見える鳴沢岳で一人くつろぐことにする。お花畑の中を少し登り、頂上とおぼしきところに着いたが、さらに、その先に、黄色い頂上の標識が見える。大汗を書いて、鳴沢岳を登る。早速、ビールを開け、カラカラの喉を潤す。晴れた空の下、寝転がって、ビールを飲みながら雄大な剣岳を眺められるのは最高の幸せである。ここから尾根は、平坦になり、ハイマツの樹林の中を歩く。四時半頃、種池に着き、テントを張る。
曇った朝が訪れる。少し肌寒く、長袖シャツの着て朝露の降りた草原を散策する。白いチングルマやピンクのイワカガミが可愛らしい。歩いているうち、次第に、晴れ間が広がってくる。見晴らしの良い尾根の上に出ると、黒部川の対岸の剣岳が朝日に照らされて少し赤みがかって薄青く見える。そして、昨日歩き始めた針ノ木岳が遥か遠く薄青く霞んで見える。六時半頃、去り難いこの草原を後にする。長い下り道の後、九時半頃、扇沢に着いた。バスを待つ間、食堂でくつろいでいると、ちょうど、中島みゆきの「地上の星」がスピーカから流れてくる。黒部ダムへ続く針ノ木トンネルの入り口でこの歌を聴くとは感激である。
秋の綿雲がたなびく種池の草原